一杯に込めた夢と悔しさと感謝【代表 中野 則司氏】
有限会社CIRCLE SEVEN
ラーメン屋を始めたきっかけ
常連から店主へ。ラーメンに導かれた人生
実は、ラーメン屋を始めるきっかけは、一人の“常連”として通っていたお店との出会いからでした。
当時、僕は別のラーメン店で働きながら、もっと稼ぎたいという思いから、夜は居酒屋で朝までアルバイトをしていました。
そんなハードな毎日の中でも、楽しみだったのが行きつけのラーメン屋の一杯。
何度も通ううちに、すっかりファンになっていました。
ある日、居酒屋のバイト仲間と話していたときに「あそこのラーメン好きなんですよね」とふと口にすると、
「実はマスター、知り合いだよ」と言われてびっくり。そこから話がどんどんつながって、
「あのお店が新しい場所に移転するから、今の店舗を誰かに譲りたいらしいよ」という話まで耳に入ってきたんです。
ラーメン屋で働いた経験もあるし、常連としてお店の味も想いもよく知っている。
しかも、初期投資もいらず、すぐにお店を始められるという、まさに“ラッキー”なチャンスでした。
実は、僕の小さい頃からの夢は“ラーメン屋になること”。
その夢を叶えるために、中華料理のコックとして腕を磨いた経験もあったんです。
「これはもう、やるしかない」
そう思って、僕のラーメン人生がスタートしました。
当時、僕は別のラーメン店で働きながら、もっと稼ぎたいという思いから、夜は居酒屋で朝までアルバイトをしていました。
そんなハードな毎日の中でも、楽しみだったのが行きつけのラーメン屋の一杯。
何度も通ううちに、すっかりファンになっていました。
ある日、居酒屋のバイト仲間と話していたときに「あそこのラーメン好きなんですよね」とふと口にすると、
「実はマスター、知り合いだよ」と言われてびっくり。そこから話がどんどんつながって、
「あのお店が新しい場所に移転するから、今の店舗を誰かに譲りたいらしいよ」という話まで耳に入ってきたんです。
ラーメン屋で働いた経験もあるし、常連としてお店の味も想いもよく知っている。
しかも、初期投資もいらず、すぐにお店を始められるという、まさに“ラッキー”なチャンスでした。
実は、僕の小さい頃からの夢は“ラーメン屋になること”。
その夢を叶えるために、中華料理のコックとして腕を磨いた経験もあったんです。
「これはもう、やるしかない」
そう思って、僕のラーメン人生がスタートしました。
一から勝負の一杯 〜“俺のラーメン”を作りたくて〜
“俺の味”で勝負
初期投資なし、しかも味も作り方も、すべて前オーナーのやり方を踏襲。
5年は続けてね、と言われていたけれど。
2年半がたったころ_
「やっぱり、一から自分のラーメンを作ってみたい」
そんな思いがどんどん強くなっていって、ついに“辞める覚悟”を決めた。
そして生まれたのが、記念すべき1号店「竜胆(りんどう)」。
オープンを前に、昔からの知り合いだった業者さんが来てくれて、
ラーメンを試食してもらったときのこと。いきなりズバッと、衝撃のひとこと。
「もっと美味しい麺を作っているところがあるから、持ってきてあげるよ」
その麺を試しに食べてみたら、とても美味しいかったんです。
「この麺に合わせたラーメンを作ってみよう!」
そこからの1ヶ月は、ずっと厨房にこもって試作、試作、また試作。
でも、不思議とつらくなかった。むしろ楽しかった。
納得のいく一杯ができたときには、心の底から「やってよかった」と思えた。
もちろん、立ち上げの苦労が“なかった”わけじゃない。
でも、最初にやっていた街中華のラーメン店で、ある程度は経験を積んでいたから、
焦ることも、不安になることもなかった。
“自分の味”で勝負できることが、何よりもうれしかった。
でも、その喜びはひとりで味わうものじゃなかった。
思いがけず、「一緒にやりたい」と名乗りを上げてくれた人たちがいたからこそ、僕のラーメン人生は、次のステージへと進んでいったんです。
5年は続けてね、と言われていたけれど。
2年半がたったころ_
「やっぱり、一から自分のラーメンを作ってみたい」
そんな思いがどんどん強くなっていって、ついに“辞める覚悟”を決めた。
そして生まれたのが、記念すべき1号店「竜胆(りんどう)」。
オープンを前に、昔からの知り合いだった業者さんが来てくれて、
ラーメンを試食してもらったときのこと。いきなりズバッと、衝撃のひとこと。
「もっと美味しい麺を作っているところがあるから、持ってきてあげるよ」
その麺を試しに食べてみたら、とても美味しいかったんです。
「この麺に合わせたラーメンを作ってみよう!」
そこからの1ヶ月は、ずっと厨房にこもって試作、試作、また試作。
でも、不思議とつらくなかった。むしろ楽しかった。
納得のいく一杯ができたときには、心の底から「やってよかった」と思えた。
もちろん、立ち上げの苦労が“なかった”わけじゃない。
でも、最初にやっていた街中華のラーメン店で、ある程度は経験を積んでいたから、
焦ることも、不安になることもなかった。
“自分の味”で勝負できることが、何よりもうれしかった。
でも、その喜びはひとりで味わうものじゃなかった。
思いがけず、「一緒にやりたい」と名乗りを上げてくれた人たちがいたからこそ、僕のラーメン人生は、次のステージへと進んでいったんです。
自然と仲間が集まり、店が増えていった。
それでも「怖さ」は一切なかった
「そろそろ、地元に戻ろうかな」
東京にいた弟が、そんな風に言ってくれたのは、ちょうど1号店「竜胆」が動き始めたころだった。
「兄貴と一緒にラーメン屋やりたい」
その言葉が、素直にうれしかった。
弟が加わってくれることになり、心強くなった……と思いきや、当時はすでに弟子が一人いて、
狭い店内に3人もいると、人件費がエグい(笑)。
「これじゃ僕の給料出ないじゃん!」ってなって、
なんと、ラーメン屋の店主なのに、他所の工場で働いてた時期もあった。
「え?経営者が工場で働いてるの!?」とまわりに驚かれたけど、
僕にとっては、“仲間がラーメンをやりたいって言ってくれた”ことの方が大事だった。
それから少しずつ、
「自分も一緒に働きたいです!」と声をかけてくれる仲間が増えてきて──
気がついたら、「じゃあ2店舗目、出すか」「次は3店舗目」って、
自然とお店も増えていった。
不思議なもので、「失敗したらどうしよう」「流行らなかったら…」っていう怖さは、全然なかった。
なによりも、仲間と一緒にやれることが楽しかった。
ちなみに、うちの店舗は、名前も味も全部違う。
よく「竜胆が有名なんだから2号店も竜胆にすればいいのに」その当時は言われたけど、あえて全部変えている。
それは、自分の“可能性”をまだまだ試してみたかったから。
そして、最初に間借りで始めた店の、あの壮絶なスタートがあったからこそ、「一つひとつのお店に、それぞれの物語を持たせたい」と思ったんです。
東京にいた弟が、そんな風に言ってくれたのは、ちょうど1号店「竜胆」が動き始めたころだった。
「兄貴と一緒にラーメン屋やりたい」
その言葉が、素直にうれしかった。
弟が加わってくれることになり、心強くなった……と思いきや、当時はすでに弟子が一人いて、
狭い店内に3人もいると、人件費がエグい(笑)。
「これじゃ僕の給料出ないじゃん!」ってなって、
なんと、ラーメン屋の店主なのに、他所の工場で働いてた時期もあった。
「え?経営者が工場で働いてるの!?」とまわりに驚かれたけど、
僕にとっては、“仲間がラーメンをやりたいって言ってくれた”ことの方が大事だった。
それから少しずつ、
「自分も一緒に働きたいです!」と声をかけてくれる仲間が増えてきて──
気がついたら、「じゃあ2店舗目、出すか」「次は3店舗目」って、
自然とお店も増えていった。
不思議なもので、「失敗したらどうしよう」「流行らなかったら…」っていう怖さは、全然なかった。
なによりも、仲間と一緒にやれることが楽しかった。
ちなみに、うちの店舗は、名前も味も全部違う。
よく「竜胆が有名なんだから2号店も竜胆にすればいいのに」その当時は言われたけど、あえて全部変えている。
それは、自分の“可能性”をまだまだ試してみたかったから。
そして、最初に間借りで始めた店の、あの壮絶なスタートがあったからこそ、「一つひとつのお店に、それぞれの物語を持たせたい」と思ったんです。
よそ者と呼ばれた僕が、信頼をラーメンで取り返した日々
9人が残しても、1人が完食してくれたら、それでいい
最初にチャンスをもらい間借りして始めた店舗。
代替わりでお店を引き継いでからというもの、最初の頃は散々だった。
店に立つと、お客さんからこう言われる。
「……で、マスターは?」
「今日からここの主人なんで、よろしくお願いします」
そう答えるしかなかった。
でも、現実は厳しかった。
ラーメンを出しても、半分以上残される。
作って出したラーメンを、目の前でゴミ箱に捨てられたこともある。
スープを一口飲んだだけで「ごちそうさま」と帰られたり、
出前したのに、一口も食べられず、吸い殻で山盛りになった器が返ってきたこともあった。
まるで、「お前のラーメンなんか食べるか」と言われているようで、
さすがに、心が折れそうになった。
結局、この地区では僕は“よそ者”だった。
周りのお店からも、冷たくされる時期があった。
あまりに苦しくて、師匠に相談した。
「絶対にお客さんにキレてはいけない。我慢だ。」
その言葉が、今でも忘れられない。
さらに師匠はこう続けた。
「味が変でしたか?って謝って、ウーロン茶でもいいから出してあげなさい。」
「なんでそこまでするんですか?」と思った。
でも今ならわかる。
それくらいの“広い心”を持つ人間でいなさい──という、師匠からの教えだったんだ。
それでも、やめなかった。毎日、休まず、店に立った。
そして、やり始めて2年ほど経った頃──
ようやく周りが少しずつ、僕を“店主”として認めてくれるようになってきた。
なにより忘れられないのは、
「竜胆」をオープンしたときのこと。
一番初めにやっていたお店に通ってくれていたおじいちゃんが、電車に乗って、駅からだいぶ歩く距離を歩いて来てくれたのだ。
あの姿を見たとき、本当に、涙が出るほどうれしかった。
9人に「美味しくない」と言われても、
たった1人が「うまい」って言ってくれたら、それで十分。
それが、この仕事の価値だと思えるんです。
だから、やめられないんですよね、この商売。
そして、その思いがあるからこそ──
2号店を出すときは、弟を店長にして、店の名前もまったく別にした。
もし「竜胆」という名前をそのまま使っていたら、
弟もまた、かつての自分のように「マスターは?」って言われてしまうかもしれない。
あのときのつらさを、弟に味わわせたくなかった。
一人ひとりが、自分の「一杯」を胸を張って作れるように。
そんな場所を、これからも仲間と一緒につくっていきたい。
でも──
僕の“挑戦したいこと”は、ラーメンだけにとどまらなかったんです。
ラーメン屋という人生の土台ができた今、
これまでの経験を活かして、まったく別の世界にも踏み出してみたいと思うようになりました。
次の夢は、まったく違う分野かもしれない。
だけどきっと、根っこにあるのは“人に喜んでもらうこと”。
そう信じて、僕はまた新しい一歩を踏み出そうとしています。
代替わりでお店を引き継いでからというもの、最初の頃は散々だった。
店に立つと、お客さんからこう言われる。
「……で、マスターは?」
「今日からここの主人なんで、よろしくお願いします」
そう答えるしかなかった。
でも、現実は厳しかった。
ラーメンを出しても、半分以上残される。
作って出したラーメンを、目の前でゴミ箱に捨てられたこともある。
スープを一口飲んだだけで「ごちそうさま」と帰られたり、
出前したのに、一口も食べられず、吸い殻で山盛りになった器が返ってきたこともあった。
まるで、「お前のラーメンなんか食べるか」と言われているようで、
さすがに、心が折れそうになった。
結局、この地区では僕は“よそ者”だった。
周りのお店からも、冷たくされる時期があった。
あまりに苦しくて、師匠に相談した。
「絶対にお客さんにキレてはいけない。我慢だ。」
その言葉が、今でも忘れられない。
さらに師匠はこう続けた。
「味が変でしたか?って謝って、ウーロン茶でもいいから出してあげなさい。」
「なんでそこまでするんですか?」と思った。
でも今ならわかる。
それくらいの“広い心”を持つ人間でいなさい──という、師匠からの教えだったんだ。
それでも、やめなかった。毎日、休まず、店に立った。
そして、やり始めて2年ほど経った頃──
ようやく周りが少しずつ、僕を“店主”として認めてくれるようになってきた。
なにより忘れられないのは、
「竜胆」をオープンしたときのこと。
一番初めにやっていたお店に通ってくれていたおじいちゃんが、電車に乗って、駅からだいぶ歩く距離を歩いて来てくれたのだ。
あの姿を見たとき、本当に、涙が出るほどうれしかった。
9人に「美味しくない」と言われても、
たった1人が「うまい」って言ってくれたら、それで十分。
それが、この仕事の価値だと思えるんです。
だから、やめられないんですよね、この商売。
そして、その思いがあるからこそ──
2号店を出すときは、弟を店長にして、店の名前もまったく別にした。
もし「竜胆」という名前をそのまま使っていたら、
弟もまた、かつての自分のように「マスターは?」って言われてしまうかもしれない。
あのときのつらさを、弟に味わわせたくなかった。
一人ひとりが、自分の「一杯」を胸を張って作れるように。
そんな場所を、これからも仲間と一緒につくっていきたい。
でも──
僕の“挑戦したいこと”は、ラーメンだけにとどまらなかったんです。
ラーメン屋という人生の土台ができた今、
これまでの経験を活かして、まったく別の世界にも踏み出してみたいと思うようになりました。
次の夢は、まったく違う分野かもしれない。
だけどきっと、根っこにあるのは“人に喜んでもらうこと”。
そう信じて、僕はまた新しい一歩を踏み出そうとしています。
土に触れる未来へ──農業という、新しい挑戦
家族のために、誰かのために、そして自分のために
これまでずっと、「食べてもらう」ことに向き合ってきた。
素材を仕入れ、仕込み、調理して、一杯のラーメンに仕上げる。
でも最近、思うようになったんです。
その“もっと前”から関わってみたい。素材そのものを、自分の手で育ててみたい──と。
ラーメンとはまったく違う分野かもしれない。
でも、飲食に関わる者として「素材 → 加工 → 調理 → 提供」に、
「生産」という最初の工程をプラスしてみたいという気持ちが芽生えました。
きっかけは、家族のことです。
実は、僕の長男には障害があって、以前より家で過ごすことが多くなっていました。
仕事に没頭しすぎて、正直、家庭や子どもと向き合う時間は少なかった。
そのことに気づいたとき、自分と彼との間に隔たりを痛いほど感じたんです。
だからこそ、彼と一緒に過ごせる環境をつくりたいと思いました。
天気のいい日に、太陽の下で、土に触れながら働くこと。
日が昇って、日が沈むまで、自然とともに動く毎日。
それが、息子にとっても生きるリズムやきっかけになるんじゃないかと感じたんです。
実際、天候が優れない日は調子が崩れがちだからこそ、
青空の下で過ごす時間を大切にしてあげたいと思いました。
まずは、小さな家庭菜園のような場所から始めてみるつもりです。
でもその先には、農業法人としての独立や、コミュニティづくりという目標もあります。
同じように、何かしらの課題を抱えるご家族や子どもたち。
一線を退いたけれど、まだまだ元気で経験豊富な人生の先輩たち。
農業の知識を持った方、体を動かしたい人──
そんな人たちが、肩書きも年齢も超えてつながれる場所にしていきたい。
ラーメン屋を始めてから、いろんなことがありました。
その中で、ふとした時に思い出す言葉があります。
「人は、人に支えられて生きてるんだよ」
誰に言われたわけでもないけど、自分の中でずっと残っている言葉です。
農業は、まだ夢の段階です。
今すぐ何かができるわけでもないし、たぶんすぐにはうまくいかないことも多いと思う。
それでも──
大切な人のそばにいながら、生きる力になるような何かを、一緒に育ててみたいんです。
ゆっくりでもいい。
畑にひとつ、種をまくように。
この想いも、ちゃんと根を張ってくれると信じています。
素材を仕入れ、仕込み、調理して、一杯のラーメンに仕上げる。
でも最近、思うようになったんです。
その“もっと前”から関わってみたい。素材そのものを、自分の手で育ててみたい──と。
ラーメンとはまったく違う分野かもしれない。
でも、飲食に関わる者として「素材 → 加工 → 調理 → 提供」に、
「生産」という最初の工程をプラスしてみたいという気持ちが芽生えました。
きっかけは、家族のことです。
実は、僕の長男には障害があって、以前より家で過ごすことが多くなっていました。
仕事に没頭しすぎて、正直、家庭や子どもと向き合う時間は少なかった。
そのことに気づいたとき、自分と彼との間に隔たりを痛いほど感じたんです。
だからこそ、彼と一緒に過ごせる環境をつくりたいと思いました。
天気のいい日に、太陽の下で、土に触れながら働くこと。
日が昇って、日が沈むまで、自然とともに動く毎日。
それが、息子にとっても生きるリズムやきっかけになるんじゃないかと感じたんです。
実際、天候が優れない日は調子が崩れがちだからこそ、
青空の下で過ごす時間を大切にしてあげたいと思いました。
まずは、小さな家庭菜園のような場所から始めてみるつもりです。
でもその先には、農業法人としての独立や、コミュニティづくりという目標もあります。
同じように、何かしらの課題を抱えるご家族や子どもたち。
一線を退いたけれど、まだまだ元気で経験豊富な人生の先輩たち。
農業の知識を持った方、体を動かしたい人──
そんな人たちが、肩書きも年齢も超えてつながれる場所にしていきたい。
ラーメン屋を始めてから、いろんなことがありました。
その中で、ふとした時に思い出す言葉があります。
「人は、人に支えられて生きてるんだよ」
誰に言われたわけでもないけど、自分の中でずっと残っている言葉です。
農業は、まだ夢の段階です。
今すぐ何かができるわけでもないし、たぶんすぐにはうまくいかないことも多いと思う。
それでも──
大切な人のそばにいながら、生きる力になるような何かを、一緒に育ててみたいんです。
ゆっくりでもいい。
畑にひとつ、種をまくように。
この想いも、ちゃんと根を張ってくれると信じています。
会社情報
会社名略称. | 有限会社CIRCLE SEVEN |
---|---|
勤務先名 | ラーメンのろし新発田店/麺食堂まる七/ドライブイン七兵衛/マルシチラーメンセンター/元祖中津からあげ山東新潟店/塩中華八潮/柳麺竜胆/キッチンカー「中野七兵衛商店」 |
本社住所 | 新潟県新潟市東区中島2‐1‐27‐325 |
代表者名 | 代表取締役 中野 則司様 |
1年後〜3年後の目標 | \目標/ これからの夢は、まずなにより、 コロナ前の状態まで会社をしっかり回復させること。 そして、それを“ゴール”じゃなく、“通過点”にしたいと思っています。 厳しい時期を一緒に乗り越えてくれたスタッフたち。 応援の言葉や、何気ない日常の会話で支えてくれたお客様。 変わらず関わってくれている取引先や、仲間たち。 そんな人たちに、少しずつでも何かを還元していきたい。 あのとき苦労してよかったねって、いつか一緒に笑えるように。 そのためにも、今はしっかりと地盤を整えて、 次のステージに進むための“土台”を築く時期だと思っています。 まだまだ挑戦は続く── その気持ちを胸に、これからも自分らしく、歩いていきたいと思います。 |
事業内容 | 飲食業 |
メッセージ | \店名に込めた想い/ 店の名前「竜胆(りんどう)」は、ある花の名前から取りました。 それは、54歳という若さで亡くなった母が好きだった花です。 母は、僕が飲食の道に進むきっかけをくれた人でもありました。 料理好きで、あたたかくて、家族の中心にいつもいた母。 僕が「自分の店を持ちたい」と言ったとき、誰よりも喜んで、楽しみにしてくれていたのが母でした。 でも── オープンの日を、母に見せることはできなかったんです。 だからせめて、店の名前に、母への想いを込めようと思いました。 母の好きだった花「竜胆」は、秋に咲く、凛とした紫の花。 派手さはないけれど、しっかりと芯があって、静かに強く咲く花です。 きっと、母そのものだったんだと思います。 店の暖簾をくぐるたび、どこかで母が見守ってくれているような気がする。 「竜胆」という名前には、そんな想いが込められています。 |
その他 | \グループ店/ 中華そば・焼きめし勝鬨屋、ラーメンのろし長岡店 |
取材者情報
今回の社長へのインタビュアーのご紹介です。
「話を聞きたい!」からお問い合わせを頂いた場合は運営会社の株式会社採用戦略研究所を通して、各インタビュアー者よりご連絡させて頂きます。
取材者名 | ㈱採用戦略研究所 土田 |
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住所 | 新潟県長岡市山田3丁目2-7 |
電話番号 | 070‐6433‐5645 |
事務所HP | https://rs-lab.jp |