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深く考えたわけじゃない。でも気づけば、“継ぐ”道に進んでた【小越洋輔氏】

レストハウス華苑

将来なんて、正直まだ考えてなかった。

気づけば自然に「継ぐ」道へ

将来的には、自分がこの「レストハウス華苑(かえん)」を継ぐ立場にあります。
今はまだ父が現役で店を切り盛りしていますが、兄の進路が決まった頃から、
なんとなく“自分がやるんだろうな”と思い始めていました。
この店は、父が創業して今年で42年になります。
もともと柏崎でトラックの運転手をしていた父が、母と出会って地元に戻り、「飲食で勝負したい」と思い立ち、
新潟市内の中華料理店で6年間修行をしてから、この店を立ち上げました。

私が物心ついたときには、すでに両親はお店に立っていて、祖父母が兄弟の面倒を見てくれていました。
ごはんを食べるのも、遊ぶのも、お店が生活の一部という感じでしたね。

2つ上の兄とは、小さい頃から一緒に野球ばかりしていました。
兄は社会人になっても野球を続けたいという想いがあって、私はまだ将来のことをはっきり決めていなかった。
だからこそ、「自分が店を継ぐのが自然なのかな」と思うようになったんです。

高校を卒業してからは、調理の専門学校へ進学しました。
もともと中華でやっていくつもりだったので、実習でも中華の授業には特に力が入りました。

当時の講師の先生が、新潟市内の中華料理店で調理長をされている方で、
その先生に「うちで修行してみないか」と声をかけていただいたのがきっかけで、
そのお店で7年間、みっちりと中華の技術と現場の厳しさを学ばせてもらいました。

そして、家族にちょっとした転機があったタイミングで、「そろそろ戻ろう」と思い、店に帰ってくることにしたんです。

修行先で学んだ、“技術以上に大切なこと”

師匠の教えがあったからこそ今の自分がいる

修行した7年間は、私にとって本当に大きな時間でした。
技術のことはもちろんですが、それ以上に「人としてどうあるか」を教えてもらったと思っています。
料理長をはじめ、職場の先輩や仲間たちから学んだことが、今の私の軸になっているといってもいいくらいです。

ちょっとだけ、料理長の話をさせてください。
あの方との出会いがなかったら、今の私はいない——それくらい影響を受けた人です。

職場は、6~7人がギュッと集まるような狭い厨房。朝の7~8時から、夜の10~11時まで、ひたすら料理に向き合う日々でした。
私は中堅のポジションにいたので、上には上司、下には部下という立場。部下を指導しながら、自分の仕事もこなす。
でも、あるとき部下が次々と辞めていってしまって。気づけば、自分の担当以外の仕事まで抱えるようになったんです。

正直、きつかったです。
「なんで自分ばっかり…」って思っていましたし、投げ出したくなったことも何度もありました。
でも、そんな時に料理長がかけてくれた言葉があるんです。

「それ、できることなんだよ。“できる”と思ってやるのと、“いやいや”やってるのとでは、全然違うから。」

この言葉にハッとさせられました。
ただ作業をこなすだけじゃなく、「自分にはできる」と信じて向き合ってみる。
すると、まわりが見えるようになるし、スタッフそれぞれが何を考えているのかも、少しずつわかるようになってくる。
仕事のやり方も、気の持ちようでこんなに変わるんだって実感しました。

それからは、自分でも驚くくらい、いろんなことに気づけるようになっていったんです。
まるで仙人になったみたいに(笑)、心が落ち着いて、視野が広がったというか。
新しく入ってきたスタッフに対しても、自然と「どうやったらわかりやすく伝えられるか」を考えるようになっていきました。

毎日のように私だけ説教されてましたよ(笑)。
当時は「なんで自分だけ…」と悩んだりもしましたが、今思えばそれだけ真剣に私のことを見てくれていたんだなと。
本当に感謝しかありません。

料理長とは、今でも連絡を取り合っていますし、私にとって人生の師匠です。

この修行時代で得た“人との向き合い方”や“気持ちの持ちよう”は、今、実家の店に戻ってから、親やスタッフ、お客さんと接するときに強く活きています。
料理人としてだけでなく、“人としてどうあるか”を教えてもらえた7年間でした。

ぶつかり、悩み、気づかされたこと

家業に戻って見えた現実

実家のお店に戻ってから、しばらくは本当に大変でした。

家族経営の飲食店って、外から見れば温かい雰囲気に映るかもしれません。
でも実際にその中に入ると、思っていた以上に厳しい現実が待っていたんです。特に、父との距離感は難しかったですね。
7年の修行を経て、「自分なりの考え」が芽生えていた私は、もっとこうしたら効率がいいんじゃないか、もっとこうすればお客様に喜んでもらえるんじゃないかーーそんな風に、店の動きや調理場、ホールの運営について意見を伝え始めたんです。
でも、それがすんなり受け入れられることはありませんでした。
父はこの店をゼロから築き、40年以上守ってきた人です。やってきたことに自信もあるし、信念もある。
その想いに、当時の私はあまりにも無頓着でした。正直、「なんで聞く耳を持ってくれないんだ」とイライラすることもありましたし、
すれ違いの連続で、毎日のように小さな言い合いが続きました。
「自分がやったほうがうまくいく」と思っていたあの頃の私は、まだまだ未熟だったと思います。

あるときふと気づいたんです。「父のやってきたこと、きちんと見ようとしてなかったな」と。
修行時代に出会った料理長が教えてくれた、“相手の立場になって考えること”の大切さが、ようやく自分の中でつながった瞬間でした。
父の背中を見て育ってきたと思っていたけれど、本当の意味で“仕事への想い”を理解しようとしたことはなかった。
そのことに気づけてから、私の中で少しずつ変化が生まれました。
今では、意見があっても頭ごなしにぶつけることはせず、しっかりと相談しながら、少しずつ新しいやり方を提案するようにしています。
古いものを否定するのではなく、大切な部分は残しながら、未来に向けた改善をしていく。そんな形を目指しています。
家族だからこそ難しい。でも、家族だからこそ乗り越えられる——
いま振り返ると、あの時期の衝突も、必要な時間だったんだと思えます。

父の病と、兄の決断——家族で迎えた転機

家族の絆

いまも現役で働く父ですが、実はこれまでに2度、脳梗塞を経験しています。

「華苑」にとって、それはまさに転機ともいえる出来事でした。
いいことではありません。でも、これからのお店の在り方や、家族の未来を大きく考え直すきっかけになったことは間違いありません。

1度目の発症は、幸いにも軽度で済みました。
ところが2度目は、2022年。ちょうどコロナ禍がようやく落ち着いてきたころでした。

あの年のことは、忘れようにも忘れられません。
父は半年間の入院生活を余儀なくされ、母と私だけではお店をまわしきれず、必死に毎日を乗り切っていました。
地域の方々や常連のお客様、仕入れ先の皆さんなど、多くの人の支えがあってなんとか営業を続けられたのだと思っています。
そんな中、思いもよらない出来事がありました。
兄が、24年間勤めた会社を辞めて、「お店を手伝う」と言ってくれたんです。

父が倒れてから兄は、祖父母や母がやっている畑の手伝いをしていて、そこで採れた野菜が「華苑」の料理に使われ、お客様から「美味しいね」と言ってもらえることに、喜びを感じてくれていたようです。それがきっかけで、
「直接お客様と関われる仕事をしてみたい」と思うようになっていたと後で教えてくれました。
正直、驚きました。
でも、それ以上に嬉しかったです。

お店は決して楽な仕事ではありません。でもいま、こうして兄弟ふたりで力を合わせて「華苑」を支えていける環境ができたことに、大きな意味を感じています。

父が体調を崩したことは、家族にとってもお店にとっても試練でした。
でもその試練が、家族の結束をより強くしてくれた気がしています。

受け継ぐ覚悟と、これからの「華苑」のかたち

これまでの経験を活かしながら_

いずれ父や母にも、引退のときが来ると思います。
そのときに慌てないように、今からお店の体制や役割分担をしっかり整えていかなきゃと思っています。
接客ひとつにしても、一から教えていくにはやっぱり時間がかかる。
私がホールに立てればいいんですけど、調理場を空けるわけにもいかないですからね。
どうしていくかは、これからの課題のひとつですね。

でも、「華苑らしさ」は絶対に残したいと思っています。

たとえば、うちのラーメンは開業当初からずっと“自家製麺”。
細ちぢれ麺で、スープとよく絡むのが特徴です。
毎朝仕込んでいるので手間はかかりますが、「この麺じゃなきゃ華苑じゃない」と思っています。
実際にお客さんから「この麺が好きなんだよね」って言われると、やっぱり嬉しいですね。

それから、実は祖父母や母たちが畑で育てている季節の野菜を、時期によって料理に使うこともあるんです。
ただ、あえて「これは自家製です」とかは言っていなくて、自然と料理の一部として出しています。
それでも「おいしいね」って言ってもらえると、こっそり嬉しくなりますね(笑)。

修行時代、親とのぶつかり合い、そして父の病——
いくつものターニングポイントを経て、出会ってきた人たちとのご縁に感謝しています。
料理長をはじめ、これまで私の人生に関わってくれた方々がいたからこそ、いまの自分がありますし、本当に運が良かったなと思います。
これからも、そうした出会いやご縁を大切にしながら、日々の仕事に真摯に向き合っていきたい。
「華苑」を守りながら、もっと魅力的な店にしていけるよう、兄と力を合わせて頑張っていきたいと思っています。

会社情報

会社名略称. レストハウス華苑
勤務先名 レストハウス華苑
本社住所 新潟県燕市五千石荒川1‐31
代表者名 店長 小越 洋輔様
1年後〜3年後の目標 \目標・やり遂げたいこと/
実は今、ちょっとずつなんですけど、新しいことに挑戦してまして。コロナ禍のときに補助金を使って「液体冷凍(急速冷凍)」の機械を導入したんです。これも、人との出会いがきっかけなんですよね。
当時、燕地区の飲食店を応援しようと一生懸命動いてくれた方がいて、その方の声がけで飲食店同士がつながる機会があったんです。そこでこの機械の存在を知って、「うちのエビチリや角煮、酢豚などを冷凍して売れたら面白いかも」って思って導入を決めました。
今は分水の道の駅に置いてもらっていて、ECサイトやSNSでも販売はしているんですが、「分水中華」っていう名前をもっと知ってもらいたくて。
売り上げはあるにはあるけど、正直まだ販路開拓が足りないなって感じてます。
立ち上げたばかりの頃は、正直「これ以上やったらお店まわらなくなるかも」って、そこまで一生懸命じゃなかったんです。でも今は、ちゃんと形にして、もっと本格的に広げていきたいなと思ってます。
新規事業・チャレンジしたいこと \チャレンジしてきたこと/
コロナ禍のとき、実は風評被害にあいました。
当時、近所に「燕市で最初のコロナ感染者が出た」と話題になったんです。
本当に、あのときはきつかったです。
でも、じっとしているわけにもいかず、何かできないかと考えて始めたのが「中華弁当のテイクアウト販売」でした。
ワンコインで、日替わりでおかずを変えながら、誰でも手に取りやすいように工夫しました。
当時、私は商工会の青年部にも所属していたので、そこからも口コミが広がって、多くの方に知ってもらえたんです。
ほんとうにありがたかったですね。

あのときのチャレンジがあったからこそ、今でも毎日お弁当を注文してくださる会社さんがいたり、新しいつながりが生まれました。
風評被害はつらい経験でしたけど、そこで動いたからこそ、広がったご縁がある。
あの経験は、今思えば自分たちにとって大きな転機だったと思います。
事業内容 飲食業
メッセージ 分水といえば「酒呑童子(しゅてんどうじ)」が有名なんですが、実は観光協会の方が、その歴史を小学生に伝える授業をしていて。たまたまそれを知る機会があって、思いのほか子どもたちの反応が良かったんですよ。真剣に話を聞いてくれていて、「あぁ、地元の魅力って、こうやって伝えていけるんだな」って、ちょっと感動しました。
それがきっかけで、観光協会に「酒呑童子にちなんだラーメンを作ってみたいんです」って話したんです。そしたら偶然にも、「実はいま高校生が地元食材を使ったグルメ開発を授業でやろうと思っているんです!」と。それを聞いて「ぜひ自分も参加させてください!」ってお願いして、開発に加わることになりました。
高校生たちと一緒に、「鬼」をテーマに考えていく中で、辛さや“角”や“牙”のイメージをどう表現するか?ってところからスタートしました。見た目も味も中華らしさを取り入れながら、何度も試作を重ねて、やっと完成した一杯が「酒呑童子~鬼辛!担々麺~」です。
今でもお店で提供していますので、ぜひ食べに来てくださいね♪
(※写真は上記記事にて掲載中)

取材者情報

今回の社長へのインタビュアーのご紹介です。
「話を聞きたい!」からお問い合わせを頂いた場合は運営会社の株式会社採用戦略研究所を通して、各インタビュアー者よりご連絡させて頂きます。

取材者名 ㈱採用戦略研究所 土田
住所 新潟県長岡市山田3丁目2-7
電話番号 070‐6433‐5645
事務所HP https://rs-lab.jp

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