すべての出来事を力に変えて――ひなたの時間と丸久ユニフォームの歴史が重なって生まれた未来。【代表 村田隆典氏】
株式会社丸久ユニフォーム
受け継ぐ覚悟
音楽一筋だった人生から、家業の岐路へ
1959年、祖父が創業した丸久ユニフォーム。
私自身は、小さな頃から縫製場で遊んでいたものの、家業を継ぐ道を歩むとはまったく思っていませんでした。
というのも、私は“ひなた”として26年間、音楽だけに打ち込んできた人間でした。
「音楽で生きていく」ことしか考えていなかったし、それが自分の人生だと信じていたんです。
家業を継ぐのは、長男である兄の役目。
兄は10年ほど丸久で働き、周囲も私自身も「将来は兄が継ぐもの」と自然に思っていました。
私はその背中を見ながら、“丸久がこれからも長岡で活躍してくれたら嬉しいな”と、ひとりの家族として願う存在でした。
しかし——。
12年前のことです。
兄が大きな問題に巻き込まれ、事業を引き継ぐことが難しくなってしまいました。
それは家族も会社も揺らぐ出来事で、
2015年7月——継承の日まで決まっていた矢先のことでした。
家族は動揺し、親族も会社も大きな不安の中にいました。
「このままでは丸久がなくなるかもしれない」
小さな頃から慣れ親しんだ縫製場の光景が頭をよぎりました。
そんな状況の中、親父が振り絞るような声で言ったんです。
「会社を継いでくれないか」
正直、一番厳しい状況でした。
ニュースにも新聞にも載り、丸久ユニフォームという名前が世間にさらされる。
兄家族も県外へ離れ、負の連鎖が広がっていくような感覚でした。
でも、どこかで思ったんです。
「ここで俺が動かなかったら、もっと状況は悪くなる」 と。
そんなとき、誰より支えになってくれたのが、ひなたとして26年間一緒に活動してきた相方、ぴろん。
彼は従弟として会社の事情も理解していて、
「こんな状況は一時のことだ。大丈夫だ、いける!
ピンチはチャンス!」
と、ずっと背中を押し続けてくれました。
そしてもう一人、
「とりあえずやってみろ」と育ててくれた親父の存在がありました。
二人の言葉に背中を押され、覚悟を決めました。
——よし、やってみよう。
その日、金髪だった髪を黒く染め、人生で初めてネクタイを締め、
朝礼に立たせてもらった瞬間。
ここから、
私と丸久ユニフォームの新しい物語が始まったんです。
私自身は、小さな頃から縫製場で遊んでいたものの、家業を継ぐ道を歩むとはまったく思っていませんでした。
というのも、私は“ひなた”として26年間、音楽だけに打ち込んできた人間でした。
「音楽で生きていく」ことしか考えていなかったし、それが自分の人生だと信じていたんです。
家業を継ぐのは、長男である兄の役目。
兄は10年ほど丸久で働き、周囲も私自身も「将来は兄が継ぐもの」と自然に思っていました。
私はその背中を見ながら、“丸久がこれからも長岡で活躍してくれたら嬉しいな”と、ひとりの家族として願う存在でした。
しかし——。
12年前のことです。
兄が大きな問題に巻き込まれ、事業を引き継ぐことが難しくなってしまいました。
それは家族も会社も揺らぐ出来事で、
2015年7月——継承の日まで決まっていた矢先のことでした。
家族は動揺し、親族も会社も大きな不安の中にいました。
「このままでは丸久がなくなるかもしれない」
小さな頃から慣れ親しんだ縫製場の光景が頭をよぎりました。
そんな状況の中、親父が振り絞るような声で言ったんです。
「会社を継いでくれないか」
正直、一番厳しい状況でした。
ニュースにも新聞にも載り、丸久ユニフォームという名前が世間にさらされる。
兄家族も県外へ離れ、負の連鎖が広がっていくような感覚でした。
でも、どこかで思ったんです。
「ここで俺が動かなかったら、もっと状況は悪くなる」 と。
そんなとき、誰より支えになってくれたのが、ひなたとして26年間一緒に活動してきた相方、ぴろん。
彼は従弟として会社の事情も理解していて、
「こんな状況は一時のことだ。大丈夫だ、いける!
ピンチはチャンス!」
と、ずっと背中を押し続けてくれました。
そしてもう一人、
「とりあえずやってみろ」と育ててくれた親父の存在がありました。
二人の言葉に背中を押され、覚悟を決めました。
——よし、やってみよう。
その日、金髪だった髪を黒く染め、人生で初めてネクタイを締め、
朝礼に立たせてもらった瞬間。
ここから、
私と丸久ユニフォームの新しい物語が始まったんです。
初めての朝礼と、父から託された二つの条件
音楽と会社の狭間で見つけたバランス
初めて丸久ユニフォームの朝礼に立った日、
私はまず全員に頭を下げました。
兄の代わりに、突然弟の私が来たわけで、
社員のみんなからすれば
「何をしてくれてんだ」という気持ちがあって当然。
だからこそ最初に伝えたのは謝罪でした。
「精一杯引き継ぎ、どこまでできるかわかりませんが、
やらせてもらいます。よろしくお願いします。」
正直な気持ちを、そのまま話しました。
その時、父が社員の前でこう紹介してくれたんです。
「たかのりは“ひなた”として活動している。
超耕21ガッターなど、子どもたちをテーマにした活動も。
丸久に入ることになったけれど、ひなたの活動も応援したい。
音楽も続けながら会社に入ってもらう。」
この言葉で、胸の重さがすっと軽くなりました。
当時、音楽の仕事は週末が中心。
だから丸久に入れば、ひなたの活動は減るだろうと思っていました。
実際、直前の全国ツアーでは
「これからひなたは2割くらいになるかもしれない」
とファンに伝えていたほどです。
世間には兄の件がニュースで流れていて、
どこへ行ってもその影響を感じるような時期でした。
そんな中、父から二つの条件が出されました。
一つは「ひなたの活動は続けること」。
ぴろんはどうする?と父から聞かれました。
相方のぴろんは根っからのスーパーアーティストで、
音楽と芸術で生まれてきたみたなやつなので
丸久の社員になる姿はまったく想像できませんでした。(笑)
私は彼にこう伝えました。
「ひなたは続けよう。
俺も平日働くけど、週末は音楽をやる。」
もう一つは、
「5年で育てるから、40歳になるまでに
ユニフォームのことも社会のことも学べ」
というもの。
父は65歳、私は35歳で丸久に入り、
その5年間を一緒に歩むつもりでした。
しかしその約束は叶わず、
入社してすぐ父の体調が崩れ始め、
半年後には亡くなってしまいました。
あまりにも急なことで、
気持ちが追いつきませんでした。
入社したばかりの頃、
父は「とりあえず行ってみろ」というタイプで、
飛び込み営業の車に私を乗せ、
あちこちの取引先へ回ってくれました。
それが父から受けた、実質3か月の引き継ぎでしたが、
その中でつながったお客様とのご縁は今も続いていて、
本当にありがたいものです。
父が亡くなったあとは、
母が、私が40歳になるまでの間、
代理で社長を務めてくれました。
今では会社の掃除を担当してくれています。
丸久で平日働くようになってから、
週末の音楽活動が自分にとって“ご褒美”になりました。
仕事も音楽も全力で向き合うことで心のバランスが取れ、
気づけば、ひなたのライブは以前より増えていました。
そして私は6年前、正式に社長に就任しました。
私はまず全員に頭を下げました。
兄の代わりに、突然弟の私が来たわけで、
社員のみんなからすれば
「何をしてくれてんだ」という気持ちがあって当然。
だからこそ最初に伝えたのは謝罪でした。
「精一杯引き継ぎ、どこまでできるかわかりませんが、
やらせてもらいます。よろしくお願いします。」
正直な気持ちを、そのまま話しました。
その時、父が社員の前でこう紹介してくれたんです。
「たかのりは“ひなた”として活動している。
超耕21ガッターなど、子どもたちをテーマにした活動も。
丸久に入ることになったけれど、ひなたの活動も応援したい。
音楽も続けながら会社に入ってもらう。」
この言葉で、胸の重さがすっと軽くなりました。
当時、音楽の仕事は週末が中心。
だから丸久に入れば、ひなたの活動は減るだろうと思っていました。
実際、直前の全国ツアーでは
「これからひなたは2割くらいになるかもしれない」
とファンに伝えていたほどです。
世間には兄の件がニュースで流れていて、
どこへ行ってもその影響を感じるような時期でした。
そんな中、父から二つの条件が出されました。
一つは「ひなたの活動は続けること」。
ぴろんはどうする?と父から聞かれました。
相方のぴろんは根っからのスーパーアーティストで、
音楽と芸術で生まれてきたみたなやつなので
丸久の社員になる姿はまったく想像できませんでした。(笑)
私は彼にこう伝えました。
「ひなたは続けよう。
俺も平日働くけど、週末は音楽をやる。」
もう一つは、
「5年で育てるから、40歳になるまでに
ユニフォームのことも社会のことも学べ」
というもの。
父は65歳、私は35歳で丸久に入り、
その5年間を一緒に歩むつもりでした。
しかしその約束は叶わず、
入社してすぐ父の体調が崩れ始め、
半年後には亡くなってしまいました。
あまりにも急なことで、
気持ちが追いつきませんでした。
入社したばかりの頃、
父は「とりあえず行ってみろ」というタイプで、
飛び込み営業の車に私を乗せ、
あちこちの取引先へ回ってくれました。
それが父から受けた、実質3か月の引き継ぎでしたが、
その中でつながったお客様とのご縁は今も続いていて、
本当にありがたいものです。
父が亡くなったあとは、
母が、私が40歳になるまでの間、
代理で社長を務めてくれました。
今では会社の掃除を担当してくれています。
丸久で平日働くようになってから、
週末の音楽活動が自分にとって“ご褒美”になりました。
仕事も音楽も全力で向き合うことで心のバランスが取れ、
気づけば、ひなたのライブは以前より増えていました。
そして私は6年前、正式に社長に就任しました。
ユニフォームとイベントの二本柱
“ピンチはチャンス”で生まれた新しい事業
丸久ユニフォームの事業は、大きく分けて二つあります。
ひとつは ユニフォーム事業部。
もうひとつが イベント事業部 です。
ユニフォーム事業部では、製造・販売・卸を行っています。
生地を仕入れて、長岡市の幼稚園の遊び着や園児服などを
メーカーとして一から製造し、販売しています。
大きいところだと、越後製菓さんの制服を製造・販売しているのも私たちです。
ただ、事業全体で見ると、半分以上はメーカーさんから仕入れた商品を
お客様に届けることが中心になっています。
そんな中、私が社長になってすぐ、コロナ禍がやってきました。
丸久としては大きな影響はありませんでしたが、ひなたとしての活動はエンターテインメント。
完全にストップしてしまいました。
「丸久が落ち着いたと思ったら、今度はこっちか…」
そんな気持ちでした(笑)
でもきっと、親父だったらこう言うだろうと思ったんです。
「ピンチはチャンスだ!」
そこから、“この状況をどうチャンスに変えるか” を考え始めました。
丸久ユニフォームとしては、コロナが流行り始めた頃に 布マスク をつくりました。
その名も「丸久マスク」。
ありがたいことに反響が大きく、『ビートたけしのテレビタックル』などでも紹介されました。
ひなたではなく、社長としてメディアに出ました(笑)
抗菌生地などを研究しながらつくった経験は、今のユニフォーム製造にも役立っています。
まさに“ピンチをチャンスに変えた”出来事でした。
一方ひなたとしては、対面ライブができない状況だったので、
YouTube配信やラジオ番組の制作を始めました。
仲間たちが協力してくれて、編集も番組づくりも形になり、
ありがたいことにこれが成功したんです。
その時ふと思ったんです。
「これを事業としてやってもいいんじゃないか?」
実はその頃から、平日に小・中・高で講演活動も増えていました。
でも、ひなたとして平日抜けるたびに、社員に「ごめんね、行ってくるね」と言っていて、
どこかフェアじゃないと感じていたんです。
配信の活動も盛り上がってきた。
丸久での仕事も大事。
ひなたの活動も大切。
だったら——
両方を会社の事業にしてしまえばいい。
そこから、丸久ユニフォーム・イベント事業部 が誕生しました。
経営の数字も分けて見れるようになり、
会社としてしっかり管理できる体制も整いました。
そして、
このイベント事業部のメンバーとして、
相方のぴろんを丸久に迎え入れることにしました。
こうして私は、丸久で過ごした数年間の中で、
“ピンチ”からひとつひとつ新しい形を作り上げてきたんです。
ひとつは ユニフォーム事業部。
もうひとつが イベント事業部 です。
ユニフォーム事業部では、製造・販売・卸を行っています。
生地を仕入れて、長岡市の幼稚園の遊び着や園児服などを
メーカーとして一から製造し、販売しています。
大きいところだと、越後製菓さんの制服を製造・販売しているのも私たちです。
ただ、事業全体で見ると、半分以上はメーカーさんから仕入れた商品を
お客様に届けることが中心になっています。
そんな中、私が社長になってすぐ、コロナ禍がやってきました。
丸久としては大きな影響はありませんでしたが、ひなたとしての活動はエンターテインメント。
完全にストップしてしまいました。
「丸久が落ち着いたと思ったら、今度はこっちか…」
そんな気持ちでした(笑)
でもきっと、親父だったらこう言うだろうと思ったんです。
「ピンチはチャンスだ!」
そこから、“この状況をどうチャンスに変えるか” を考え始めました。
丸久ユニフォームとしては、コロナが流行り始めた頃に 布マスク をつくりました。
その名も「丸久マスク」。
ありがたいことに反響が大きく、『ビートたけしのテレビタックル』などでも紹介されました。
ひなたではなく、社長としてメディアに出ました(笑)
抗菌生地などを研究しながらつくった経験は、今のユニフォーム製造にも役立っています。
まさに“ピンチをチャンスに変えた”出来事でした。
一方ひなたとしては、対面ライブができない状況だったので、
YouTube配信やラジオ番組の制作を始めました。
仲間たちが協力してくれて、編集も番組づくりも形になり、
ありがたいことにこれが成功したんです。
その時ふと思ったんです。
「これを事業としてやってもいいんじゃないか?」
実はその頃から、平日に小・中・高で講演活動も増えていました。
でも、ひなたとして平日抜けるたびに、社員に「ごめんね、行ってくるね」と言っていて、
どこかフェアじゃないと感じていたんです。
配信の活動も盛り上がってきた。
丸久での仕事も大事。
ひなたの活動も大切。
だったら——
両方を会社の事業にしてしまえばいい。
そこから、丸久ユニフォーム・イベント事業部 が誕生しました。
経営の数字も分けて見れるようになり、
会社としてしっかり管理できる体制も整いました。
そして、
このイベント事業部のメンバーとして、
相方のぴろんを丸久に迎え入れることにしました。
こうして私は、丸久で過ごした数年間の中で、
“ピンチ”からひとつひとつ新しい形を作り上げてきたんです。
信頼をつくる営業力と、他社にない縫製力
現場の声に応える“提案できる会社”へ
祖父が始めた当初は「丸久白衣」 という名前だったんです。
最初は白衣をつくるところからスタートして、
とにかく“縫える会社”としてやってきました。
この“縫える”という部分は、今でも丸久の大きな強みなんですよね。
丸久の強みって、大きく二つあると思っています。
ひとつは、
「人で選ばれる会社であること。」
今ってネットで何でも買える時代じゃないですか。
それでもお客様が「迷ったら丸久さんに聞こう」って言ってくれるんです。
営業メンバーが本当にがんばってくれていて、“丸久さんから買いたい” と言ってもらえるのは、何よりの財産です。
もうひとつは、やっぱり 縫製の力。
今、縫製ができるユニフォーム会社って本当に少ないんです。
昔はもっとあったはずなんですけどね。
だから、
「別注でこれ作りたい」
「こんな加工できる?」
っていう声に応えられるのは、大きな強みです。
コロナの時に作った“丸久マスク”も、縫える環境がなかったら絶対無理でした。
縫製ができるから実現できたことだと思います。
それと、事務所とは別にカッティングセンター があるんです。
生地を仕入れて裁断するのはそこでやって、縫うのは地域の内職さんたち。
家でできる仕事なので、お願いすると喜んでもらえるし、
うちの配達担当である妹が届けて回収して…っていう流れが
ずっと続いてます。
ボタン付けとかアイロンがけも業務用の機械を入れて内製化していて、
会社としてもすごく“ちょうどいいバランス”で動けているんです。
今うちが主に卸しているのは、飲食・介護が2割くらいで、
製造業・鉄鋼業・食品加工が半分以上。
祖父の時代は製造100%。
その後、父の代で
ユニフォームをやろうとなり,社名を「丸久ユニフォーム」に変えました。
そこから私たちの世界が一気に広がっていきました。
ユニフォームも、時代とともにすごく変わってきたんですよね。
昔の作業服って、モスグリーン・アースグリーンで、
“THE 作業服” みたいなイメージだったと思うんです。
でも今は、ストレッチが効いて動きやすいし、防臭や耐電防止の機能もついているし、
洗濯してもシワになりにくい。
見た目もかっこよくて、新入社員さんが
「あの会社のユニフォーム、おしゃれだよね」
って言ってくれるような時代になりました。
企業さんが代替わりするときに
「この機会に制服も変えたいんだよね」
って相談してくれるのは本当にうれしいし、
そこに対しての提案力は丸久の自信でもあります。
ある製造業の会社さんでは、
社名を マジックテープ式 にする提案をしました。
帰りにスーパー寄るときも外せるし、洗濯もラクだし、見た目もすっきりする。
メーカー加工だと高くなっちゃうところを、うちで縫えるから単価も抑えられる。
こういう“ひと手間”を提案できるのが、やっぱり丸久らしさなんだと思います。
最初は白衣をつくるところからスタートして、
とにかく“縫える会社”としてやってきました。
この“縫える”という部分は、今でも丸久の大きな強みなんですよね。
丸久の強みって、大きく二つあると思っています。
ひとつは、
「人で選ばれる会社であること。」
今ってネットで何でも買える時代じゃないですか。
それでもお客様が「迷ったら丸久さんに聞こう」って言ってくれるんです。
営業メンバーが本当にがんばってくれていて、“丸久さんから買いたい” と言ってもらえるのは、何よりの財産です。
もうひとつは、やっぱり 縫製の力。
今、縫製ができるユニフォーム会社って本当に少ないんです。
昔はもっとあったはずなんですけどね。
だから、
「別注でこれ作りたい」
「こんな加工できる?」
っていう声に応えられるのは、大きな強みです。
コロナの時に作った“丸久マスク”も、縫える環境がなかったら絶対無理でした。
縫製ができるから実現できたことだと思います。
それと、事務所とは別にカッティングセンター があるんです。
生地を仕入れて裁断するのはそこでやって、縫うのは地域の内職さんたち。
家でできる仕事なので、お願いすると喜んでもらえるし、
うちの配達担当である妹が届けて回収して…っていう流れが
ずっと続いてます。
ボタン付けとかアイロンがけも業務用の機械を入れて内製化していて、
会社としてもすごく“ちょうどいいバランス”で動けているんです。
今うちが主に卸しているのは、飲食・介護が2割くらいで、
製造業・鉄鋼業・食品加工が半分以上。
祖父の時代は製造100%。
その後、父の代で
ユニフォームをやろうとなり,社名を「丸久ユニフォーム」に変えました。
そこから私たちの世界が一気に広がっていきました。
ユニフォームも、時代とともにすごく変わってきたんですよね。
昔の作業服って、モスグリーン・アースグリーンで、
“THE 作業服” みたいなイメージだったと思うんです。
でも今は、ストレッチが効いて動きやすいし、防臭や耐電防止の機能もついているし、
洗濯してもシワになりにくい。
見た目もかっこよくて、新入社員さんが
「あの会社のユニフォーム、おしゃれだよね」
って言ってくれるような時代になりました。
企業さんが代替わりするときに
「この機会に制服も変えたいんだよね」
って相談してくれるのは本当にうれしいし、
そこに対しての提案力は丸久の自信でもあります。
ある製造業の会社さんでは、
社名を マジックテープ式 にする提案をしました。
帰りにスーパー寄るときも外せるし、洗濯もラクだし、見た目もすっきりする。
メーカー加工だと高くなっちゃうところを、うちで縫えるから単価も抑えられる。
こういう“ひと手間”を提案できるのが、やっぱり丸久らしさなんだと思います。
家族と仕事、そして“ひなた”
すべてがつながっていく未来へ
イベント事業部では、司会進行や音響、照明、ステージ施工まで幅広く手がけています。
ありがたいことに、新潟県内のイベント業者さんや音響屋さん、設営会社さんとは長い付き合いで、
「ここの設営、いつも通り頼むよ!」と言える仲間がたくさんいます。
そんな環境の中で、私は
「イベントの仕事は、もっと内製化したほうがいい」
と感じるようになりました。
今までは “ひなた” として呼ばれ、30分歌って終わり。
でも、イベント事業部を立ち上げたことで、
予算の中で音響も照明も宣伝もひなたの出演料も、すべて丸久で請け負えるようになったんです。
これは私にとって大きなターニングポイントでした。
ただ、月〜金は丸久、土日は音楽。
カレンダーの上では「休みゼロ」みたいな生活で(笑)、家族と過ごす時間が本当に少なかった。
そんなとき、温泉でのイベントがあって、
「今日は家族みんなで行こう」と思い立ったんです。
ついでに「お父さん歌うからな!息子は照明、妻は音響やってみるか?」なんて言いながら(笑)。
遊び半分のつもりが、これがびっくりするほど二人ともハマって。
そこから3年。
今では息子も妻も、立派に照明・音響ができるまでになりました。
家族と一緒に仕事ができて、
一緒に時間も過ごせる。
“音楽” “家族” “仕事” の3つがつながった瞬間でした。
そしてもうひとつ、ずっと心の中にある想いがあります。
ひなたの活動は、私が動けなくなったら止まってしまう。
だからこそ――
ぴろんが“一人でも続けられる形”を今のうちに作っておきたい。
ソロとして歌える力もつけてほしいし、
プロデューサーとして若い子たちを支えたり育てたりできる環境も整えてほしい。
それは、ひなたが“終わらないように”ではなく、
ひなたが“未来へつながっていくように”。
相方のぴろんに託したい、私なりの願いです。
最後に、人生はいつ何が起こるかわからない。だからこそ準備したい。
私はこれまで本当にいろんな出来事を経験してきて、
「人はいつ何が起こるかわからない」ということを痛感してきました。
だからこそ、
大切な家族、相方、社員、そして丸久に関わってくれている人たちの未来を、
少しでも守れる準備をしておきたい。
丸久ユニフォームも、ひなたも、どちらも私の人生で欠かせないものです。
これからも、
二つのステージを私らしく歩きながら、
未来へつないでいきたいと思っています。
ありがたいことに、新潟県内のイベント業者さんや音響屋さん、設営会社さんとは長い付き合いで、
「ここの設営、いつも通り頼むよ!」と言える仲間がたくさんいます。
そんな環境の中で、私は
「イベントの仕事は、もっと内製化したほうがいい」
と感じるようになりました。
今までは “ひなた” として呼ばれ、30分歌って終わり。
でも、イベント事業部を立ち上げたことで、
予算の中で音響も照明も宣伝もひなたの出演料も、すべて丸久で請け負えるようになったんです。
これは私にとって大きなターニングポイントでした。
ただ、月〜金は丸久、土日は音楽。
カレンダーの上では「休みゼロ」みたいな生活で(笑)、家族と過ごす時間が本当に少なかった。
そんなとき、温泉でのイベントがあって、
「今日は家族みんなで行こう」と思い立ったんです。
ついでに「お父さん歌うからな!息子は照明、妻は音響やってみるか?」なんて言いながら(笑)。
遊び半分のつもりが、これがびっくりするほど二人ともハマって。
そこから3年。
今では息子も妻も、立派に照明・音響ができるまでになりました。
家族と一緒に仕事ができて、
一緒に時間も過ごせる。
“音楽” “家族” “仕事” の3つがつながった瞬間でした。
そしてもうひとつ、ずっと心の中にある想いがあります。
ひなたの活動は、私が動けなくなったら止まってしまう。
だからこそ――
ぴろんが“一人でも続けられる形”を今のうちに作っておきたい。
ソロとして歌える力もつけてほしいし、
プロデューサーとして若い子たちを支えたり育てたりできる環境も整えてほしい。
それは、ひなたが“終わらないように”ではなく、
ひなたが“未来へつながっていくように”。
相方のぴろんに託したい、私なりの願いです。
最後に、人生はいつ何が起こるかわからない。だからこそ準備したい。
私はこれまで本当にいろんな出来事を経験してきて、
「人はいつ何が起こるかわからない」ということを痛感してきました。
だからこそ、
大切な家族、相方、社員、そして丸久に関わってくれている人たちの未来を、
少しでも守れる準備をしておきたい。
丸久ユニフォームも、ひなたも、どちらも私の人生で欠かせないものです。
これからも、
二つのステージを私らしく歩きながら、
未来へつないでいきたいと思っています。
会社情報
| 会社名略称. | 株式会社丸久ユニフォーム |
|---|---|
| 勤務先名 | 株式会社丸久ユニフォーム |
| 本社住所 | 新潟県長岡市袋町2‐1084 |
| 代表者名 | 代表取締役 村田 隆典様 |
| 1年後〜3年後の目標 | 丸久ユニフォームとして、これから挑戦したいことがあります。 ユニフォームの生地は中国製が主流で、綿65%・ポリエステル35%という“丈夫で安い”配合が得意です。 ただ、もっと複雑で手間のかかる生地づくり―― たとえば綿15%、ポリエステル70%、シルク15%、さらにストレッチを効かせるようなものは、実は 長岡市栃尾の「山信織物」さん が圧倒的に強いんです。 その山信さんで作られた、生地を活かして、エコバックやシャツ、そして‟アーティストをイメージした”新しい商品を作りたいと考えています。 丸久が長年つくってきた「遊び着」への愛着を、大人向けにアレンジして―― 『大人の遊び着』というブランドを、メイドイン長岡で展開したい。 ぴろんがデザインを担当し、栃尾の生地 × 長岡の縫製 × ひなたのクリエイティブ。 地元の力を掛け合わせて、“丸久ユニフォームの新しい挑戦”を形にしていきたいと思っています。 ひなたとして掲げていた大きな目標のひとつ、 「新潟県民会館ライブ」 それが先日、無事に叶いました。 本当にうれしくて、次のステージへの力にもなりました。 次の大きな目標は、 2年後に「長岡市立劇場」再度ライブを開催すること。 ここに向けて、また一から積み上げていきたいと思っています。 そして来年は、もっと“新潟に特化した活動”をしようと考えています。 去年は日本全国47都道府県をまわる旅をして、それが本当に楽しかったんです。 だから今年は、新潟の 45ある道の駅 を巡りながら、イベントを組みつつ仲間たちと県内を回る予定です。 さらに、ひなたは「みなさんと一緒に曲を作る」のが大好きで、これまで 52社の企業さんとコラボ曲 を作ってきました。 その数を 100社まで増やす という新しい目標も掲げています。 “地域と一緒に音楽をつくる”―― それが、これからのひなたが目指す姿です。 |
| 事業内容 | ユニフォーム企画/製造/販売/卸/イベント事業 |
| メッセージ | 《ひなたとしての想い》 ひなたのテーマは、ずっと “伸びしろ” です。 満足したら終わりだと思っていて、いい意味で現状に甘えないことを大切にしています。 ひなたはメジャーデビューもしていません。 でも、武道館でライブをする、紅白に出る―― そんな大きな夢を今もずっと言い続けています。 今の自分たちを楽しみながら、 「来年はもっと良くなるよね」と前を向けること。それが私たちの原動力です。 そして、音楽を続けられているのは 丸久を続けているからこそ。 理解してくれる社員がいるからこそ。 本当に感謝しかありません。 |
| その他 | こちらもご覧ください‼ 《Instagram》 @takanori.hinata @piron.hinata |
取材者情報
今回の社長へのインタビュアーのご紹介です。
「話を聞きたい!」からお問い合わせを頂いた場合は運営会社の株式会社採用戦略研究所を通して、各インタビュアー者よりご連絡させて頂きます。
| 取材者名 | ㈱採用戦略研究所 土田 |
|---|---|
| 住所 | 新潟県長岡市山田3丁目2-7 |
| 電話番号 | 070‐6433‐5645 |
| 事務所HP | https://rs-lab.jp |