たくさん失って、たくさん支えられて、今もこうして生きている。だから、人に寄り添う仕事を続けていきたい。【代表 新井田慎氏】
株式会社新井田塗装店
父が築いた原点。
そこから続く“塗装の道”
うちは、もともと父が創業した会社なんです。
父は紫雲寺の出身で、当時は貧しい家に生まれた長男でした。
昔の時代ですから、本来なら長男が家を継ぐのが当たり前だったんですけど、
なぜか父は――家にいたくなかったのか、それとも追い出されたのか(笑)、集団就職で東京に出たんです。
最初は工場で働いていたみたいですが、そのあと親戚がやっていた塗装屋に就職して、
そこで“塗装”という仕事に出会ったんです。
その後、家庭の事情でいろいろあり、地元・新潟に戻らざるを得ない状況になりました。
そして、新潟で自分の塗装店を立ち上げたのが始まりです。
当時の新潟では、住宅に塗装をするという考え方がほとんどなくて、
木は削って仕上げるもの、ペンキなんて必要ない――そんな風潮だったそうです。
でも父は、東京で見てきた技術や考え方を地元に持ち帰って、
「こういうやり方もあるんだ」と職人仲間に伝えながら仕事をしていました。
いま思えば、当時から“新しいものを受け入れる柔軟さ”を持っていた人だったと思います。
塗装という仕事を地元で根づかせようとした父の姿勢が、いまの新井田塗装店の原点なんです。
父は紫雲寺の出身で、当時は貧しい家に生まれた長男でした。
昔の時代ですから、本来なら長男が家を継ぐのが当たり前だったんですけど、
なぜか父は――家にいたくなかったのか、それとも追い出されたのか(笑)、集団就職で東京に出たんです。
最初は工場で働いていたみたいですが、そのあと親戚がやっていた塗装屋に就職して、
そこで“塗装”という仕事に出会ったんです。
その後、家庭の事情でいろいろあり、地元・新潟に戻らざるを得ない状況になりました。
そして、新潟で自分の塗装店を立ち上げたのが始まりです。
当時の新潟では、住宅に塗装をするという考え方がほとんどなくて、
木は削って仕上げるもの、ペンキなんて必要ない――そんな風潮だったそうです。
でも父は、東京で見てきた技術や考え方を地元に持ち帰って、
「こういうやり方もあるんだ」と職人仲間に伝えながら仕事をしていました。
いま思えば、当時から“新しいものを受け入れる柔軟さ”を持っていた人だったと思います。
塗装という仕事を地元で根づかせようとした父の姿勢が、いまの新井田塗装店の原点なんです。
英才教育は小学3年生から。受け継いだ“ペンキ屋のDNA”
家業を継ぐか、外の世界で学ぶか。13代目の決断。
最初はね、床にヒノキ油を塗ったり、そんな仕事が続いていたそうなんです。
でも、そのうち世の中が高度経済成長期に入って、一気に家を建てる時代になって。
塗装だけじゃなくて、大工さんや左官屋さん――みんな建築に携わる仲間たちがチームを組んで、一つの家をつくるようになっていきました。
だから、うちの家はいつも賑やかでしたよ。
子どもの頃から大工さんが毎日のように出入りしていて、まさに“職人の家”。
気づけば小学校3、4年生の頃には、もうペンキ塗りを手伝わされてました(笑)。
でもね、もともと絵を描いたり何かをつくったりするのが好きだったから、
嫌じゃなかったんです。今思えば、英才教育でしたね(笑)。
それに、新井田家は俺で13代目になるんです。
だから「塗装屋を継ぐ」というより、“新井田家をどう続けていくか”という想いが強かった。
とはいえ、家に残るか外に出るかでは葛藤もありました。
結局、社会人として一度外で働き、経理なども経験しました。
もし戻るとしても、それがきっと家業の力になるだろうと。
個人事業だった会社を、少しでも“会社らしく”していきたい――
そんな思いがあって、25歳のときに家族で実家に戻り、
本格的に“塗装の人生”が始まりました。
でも、そのうち世の中が高度経済成長期に入って、一気に家を建てる時代になって。
塗装だけじゃなくて、大工さんや左官屋さん――みんな建築に携わる仲間たちがチームを組んで、一つの家をつくるようになっていきました。
だから、うちの家はいつも賑やかでしたよ。
子どもの頃から大工さんが毎日のように出入りしていて、まさに“職人の家”。
気づけば小学校3、4年生の頃には、もうペンキ塗りを手伝わされてました(笑)。
でもね、もともと絵を描いたり何かをつくったりするのが好きだったから、
嫌じゃなかったんです。今思えば、英才教育でしたね(笑)。
それに、新井田家は俺で13代目になるんです。
だから「塗装屋を継ぐ」というより、“新井田家をどう続けていくか”という想いが強かった。
とはいえ、家に残るか外に出るかでは葛藤もありました。
結局、社会人として一度外で働き、経理なども経験しました。
もし戻るとしても、それがきっと家業の力になるだろうと。
個人事業だった会社を、少しでも“会社らしく”していきたい――
そんな思いがあって、25歳のときに家族で実家に戻り、
本格的に“塗装の人生”が始まりました。
厳しさの裏にあった父の愛。突然の別れと、覚悟の夜。
叱られて、迷って、それでも前を向いた25歳の冬。
家業に入ってからは、本当に大変でした。
職人の世界ですから、まずはペンキ塗りから覚えなきゃいけない。
でもね、うちの父がまぁとにかく厳しい人で(笑)。
俺が塗ってるすぐ後ろから、「そうじゃねぇ!」「ダメだ!」って怒鳴るんですよ。
怒られすぎて、もう何が正解かわからなくなる。
頭の中はぐるぐる、心はズタズタ。
“もう嫌だ、恥ずかしい、情けない”――そんな日々でした。
それでも、自分には家族がいる。やるしかなかった。
とにかく必死で毎日をこなしていましたね。
そんな矢先のことでした。
父が旅行でタイに行っていたとき、現地で突然亡くなったんです。
あれは忘れもしません。25年ほど前の、2月28日の夜中。
父と一緒に旅行していた方から電話がかかってきて――
「お父さんが行方不明になった」と。
前日から少し様子がおかしかったと聞いて、
いてもたってもいられず、こちらでも捜索願を出したり連絡を取ったりしていました。
しばらくして現地のガイドさんから電話があり、
「お父さんが亡くなりました」と。
そのときは、ただ頭が真っ白になりました。
どうしていいかもわからず、これからどう生きていくのか、まったく見えなかった。
本当に絶望的でした。
でも、会社をつぶすわけにはいかない。
母と弟と俺で、なんとかやっていかなければ――。
母が社長になり、仕事を再開しました。
悲しみの中でも、前へ進むしかなかったんです。
職人の世界ですから、まずはペンキ塗りから覚えなきゃいけない。
でもね、うちの父がまぁとにかく厳しい人で(笑)。
俺が塗ってるすぐ後ろから、「そうじゃねぇ!」「ダメだ!」って怒鳴るんですよ。
怒られすぎて、もう何が正解かわからなくなる。
頭の中はぐるぐる、心はズタズタ。
“もう嫌だ、恥ずかしい、情けない”――そんな日々でした。
それでも、自分には家族がいる。やるしかなかった。
とにかく必死で毎日をこなしていましたね。
そんな矢先のことでした。
父が旅行でタイに行っていたとき、現地で突然亡くなったんです。
あれは忘れもしません。25年ほど前の、2月28日の夜中。
父と一緒に旅行していた方から電話がかかってきて――
「お父さんが行方不明になった」と。
前日から少し様子がおかしかったと聞いて、
いてもたってもいられず、こちらでも捜索願を出したり連絡を取ったりしていました。
しばらくして現地のガイドさんから電話があり、
「お父さんが亡くなりました」と。
そのときは、ただ頭が真っ白になりました。
どうしていいかもわからず、これからどう生きていくのか、まったく見えなかった。
本当に絶望的でした。
でも、会社をつぶすわけにはいかない。
母と弟と俺で、なんとかやっていかなければ――。
母が社長になり、仕事を再開しました。
悲しみの中でも、前へ進むしかなかったんです。
家族でつないだ灯り。弟が見せてくれた“生きる力”
悲しみの中でも、前を向くしかなかった。
正直、あのときは「もう辞めようか」と思いました。
でも、父が築き上げてきた信頼もあったし、
多くの人に支えてもらいながらやってきた仕事を、自分たちの代で終わらせるわけにはいかない。
母はずっと父と二人三脚で働いてきた人でした。
だから、母に社長になってもらい、弟と三人で会社を続けることにしたんです。
俺も弟もまだ若くて、とにかくがむしゃらにやりました。
そのおかげで5年ほどたった頃には、売り上げも倍くらいになって、新しい取引先も増えて、
少しずつ会社が上向いていったんです。
でもね、その頃の俺は、ただ「父の代わりにならなきゃ」という思いだけで走っていました。
“自分はどうなりたいのか”“何のためにやっているのか”なんて考える余裕もなかった。
今思えば、真面目に仕事をしていたけれど、心のどこかでは不順だったのかもしれません。
そんなときに、また大きな壁がやってきました。
弟が家庭の問題で鬱になってしまったんです。
入院したり、元気を取り戻すまでに3年くらいかかりました。
あいつ、ちょっと変わっててね(笑)。
小さい頃から天才肌で、4歳のときに家出したり、元気がありすぎてばあちゃんに木に縛られたり(笑)。
正義感も強くて、人と関わるのが上手で、バイタリティーがすごい弟だったんです。
そして、いろんな経験を経て、最終的に写真家になったんです。
当時、“塗魂ペインターズ”という、塗装業のボランティア団体に入っていて、そこで海外の施設を塗る活動に参加したんですよ。
リトアニアだったかな。
それがきっかけで海外の空気に触れて、弟の中で何かが開花したんだと思います。
写真を撮るようになって、やがてパリで出会ったギャラリーのオーナーに認められて、写真展まで開くようになった。あの頃の弟は、本当に輝いていました。
きっと、あの出会いがあいつを救ってくれたんだと思います。
でも――コロナ禍で日本に帰国せざるを得なくなって、また海外に行こうとした矢先、ビザが間に合わず……。
あいつは、行き場を失ってしまったんです。
そのまま、帰ってこなくなった。
本当に、助けてあげられなかった。
あの時のことは、今でも悔やみきれません。
弟が撮る写真には、人を引き込む力があった。
あのエネルギーは、きっと“生きる力”そのものだったと思います。
そして今、あらためて感じるんです。
そんな大切な父、弟の死を通して、人と人が繋がっていくことの大切さを、教えてもらったような気がします。
父が亡くなってからは、仕事を返すことに必死で、与えられた仕事をいかにそつなくこなすか、ただそれだけを考えていました。
でも、弟の死、母の死を経てこの会社を引き継ぎ、「どうすれば真っ当な会社になるのか」
それだけを胸に、がむしゃらにやってきたんです。
そしてなにより、奥さんとの出会いも大きかったですね。
そこから、ようやく前を向けるようになりました。
うちの会社は、個性派ぞろいなんです(笑)。
でもその個性をどう輝かせるかが、俺の役目だと思っています。
多様化って言葉がよく使われるけど、俺にとっての多様化は、“みんなが自分らしく働けること”――そういうことなんです。
でも、父が築き上げてきた信頼もあったし、
多くの人に支えてもらいながらやってきた仕事を、自分たちの代で終わらせるわけにはいかない。
母はずっと父と二人三脚で働いてきた人でした。
だから、母に社長になってもらい、弟と三人で会社を続けることにしたんです。
俺も弟もまだ若くて、とにかくがむしゃらにやりました。
そのおかげで5年ほどたった頃には、売り上げも倍くらいになって、新しい取引先も増えて、
少しずつ会社が上向いていったんです。
でもね、その頃の俺は、ただ「父の代わりにならなきゃ」という思いだけで走っていました。
“自分はどうなりたいのか”“何のためにやっているのか”なんて考える余裕もなかった。
今思えば、真面目に仕事をしていたけれど、心のどこかでは不順だったのかもしれません。
そんなときに、また大きな壁がやってきました。
弟が家庭の問題で鬱になってしまったんです。
入院したり、元気を取り戻すまでに3年くらいかかりました。
あいつ、ちょっと変わっててね(笑)。
小さい頃から天才肌で、4歳のときに家出したり、元気がありすぎてばあちゃんに木に縛られたり(笑)。
正義感も強くて、人と関わるのが上手で、バイタリティーがすごい弟だったんです。
そして、いろんな経験を経て、最終的に写真家になったんです。
当時、“塗魂ペインターズ”という、塗装業のボランティア団体に入っていて、そこで海外の施設を塗る活動に参加したんですよ。
リトアニアだったかな。
それがきっかけで海外の空気に触れて、弟の中で何かが開花したんだと思います。
写真を撮るようになって、やがてパリで出会ったギャラリーのオーナーに認められて、写真展まで開くようになった。あの頃の弟は、本当に輝いていました。
きっと、あの出会いがあいつを救ってくれたんだと思います。
でも――コロナ禍で日本に帰国せざるを得なくなって、また海外に行こうとした矢先、ビザが間に合わず……。
あいつは、行き場を失ってしまったんです。
そのまま、帰ってこなくなった。
本当に、助けてあげられなかった。
あの時のことは、今でも悔やみきれません。
弟が撮る写真には、人を引き込む力があった。
あのエネルギーは、きっと“生きる力”そのものだったと思います。
そして今、あらためて感じるんです。
そんな大切な父、弟の死を通して、人と人が繋がっていくことの大切さを、教えてもらったような気がします。
父が亡くなってからは、仕事を返すことに必死で、与えられた仕事をいかにそつなくこなすか、ただそれだけを考えていました。
でも、弟の死、母の死を経てこの会社を引き継ぎ、「どうすれば真っ当な会社になるのか」
それだけを胸に、がむしゃらにやってきたんです。
そしてなにより、奥さんとの出会いも大きかったですね。
そこから、ようやく前を向けるようになりました。
うちの会社は、個性派ぞろいなんです(笑)。
でもその個性をどう輝かせるかが、俺の役目だと思っています。
多様化って言葉がよく使われるけど、俺にとっての多様化は、“みんなが自分らしく働けること”――そういうことなんです。
人に寄り添い、地域をつなぐ。これからの“塗装のかたち”
技術で家を守り、心でまちを支える。新井田塗装店の未来へ。
会社の方向性を切り替えてからは、お仕事の半分が工務店さんや建築士さん、設計屋さん、
ゼネコンさんなどの元請けから。
もう半分が、直接お客様とやり取りする案件になっています。
特に一般のお客様と直接話すときは、本当にさまざまな方がいらっしゃいます。
たとえば、高齢のお客様から「塗り替えやリフォームをしたい」というご相談を受けたときには、必ず聞くようにしていることがあるんです。
「この家を、最後どうしたいですか?」
お子さんたちが戻ってくるのか、それともこの家で一生を過ごすのか。
それによって提案の内容はまったく変わってきます。
だからこそ、僕たちは“塗る”前に“聴く”。
お客様の暮らしや背景を大事にしながら、願いに寄り添ったプランニングを心がけています。
父が亡くなってからも、取引先や協力会社が一件も減っていないんです。
それはもう、父が築いてきた“人とのつながり”の力だと思います。
人を信じる強さ――それを教えられた気がしますね。
そしてこれからの新井田塗装店としては、まずは自分自身が成長しなければと思っています。
自分が成長しない限り、新しい出会いやつながりも続かないですから。
まだまだ学ぶことばかりです。
今の業態としては、建築物やマンションの塗装が多いんですが、
地域の課題として感じているのが“空き家”なんです。
住宅価格が上がっている今、若い世代が奨学金を返しながら家のローンを払う――
現実的にはかなり厳しいですよね。
だからこそ、僕たちにできることがあると思うんです。
塗装の技術を活かして、ローコストで空き家をきれいに再生し、
若い世代でも手が届く住宅として提供できるようにしたい。
そんな想いで、今少しずつ準備を進めています。
毎年、新しい技術や材料を取り入れながら、
“家を変える、まちを変える”という気持ちで挑戦しています。
建築全体のことももっと勉強して、
地域の課題をひとつずつ解決できるような塗装店でありたい――そう思っています。
ゼネコンさんなどの元請けから。
もう半分が、直接お客様とやり取りする案件になっています。
特に一般のお客様と直接話すときは、本当にさまざまな方がいらっしゃいます。
たとえば、高齢のお客様から「塗り替えやリフォームをしたい」というご相談を受けたときには、必ず聞くようにしていることがあるんです。
「この家を、最後どうしたいですか?」
お子さんたちが戻ってくるのか、それともこの家で一生を過ごすのか。
それによって提案の内容はまったく変わってきます。
だからこそ、僕たちは“塗る”前に“聴く”。
お客様の暮らしや背景を大事にしながら、願いに寄り添ったプランニングを心がけています。
父が亡くなってからも、取引先や協力会社が一件も減っていないんです。
それはもう、父が築いてきた“人とのつながり”の力だと思います。
人を信じる強さ――それを教えられた気がしますね。
そしてこれからの新井田塗装店としては、まずは自分自身が成長しなければと思っています。
自分が成長しない限り、新しい出会いやつながりも続かないですから。
まだまだ学ぶことばかりです。
今の業態としては、建築物やマンションの塗装が多いんですが、
地域の課題として感じているのが“空き家”なんです。
住宅価格が上がっている今、若い世代が奨学金を返しながら家のローンを払う――
現実的にはかなり厳しいですよね。
だからこそ、僕たちにできることがあると思うんです。
塗装の技術を活かして、ローコストで空き家をきれいに再生し、
若い世代でも手が届く住宅として提供できるようにしたい。
そんな想いで、今少しずつ準備を進めています。
毎年、新しい技術や材料を取り入れながら、
“家を変える、まちを変える”という気持ちで挑戦しています。
建築全体のことももっと勉強して、
地域の課題をひとつずつ解決できるような塗装店でありたい――そう思っています。
会社情報
| 会社名略称. | 株式会社新井田塗装店 |
|---|---|
| 勤務先名 | 株式会社新井田塗装店 |
| 理念・使命 | 世界をもっとカラフルにする。 |
| 本社住所 | 新潟県新発田市長者館700‐1 |
| 代表者名 | 代表取締役 新井田 慎様 |
| 事業内容 | 屋根・外壁塗装工事/内装塗装工事/除菌/その他塗装工事 |
取材者情報
今回の社長へのインタビュアーのご紹介です。
「話を聞きたい!」からお問い合わせを頂いた場合は運営会社の株式会社採用戦略研究所を通して、各インタビュアー者よりご連絡させて頂きます。
| 取材者名 | ㈱採用戦略研究所 土田 |
|---|---|
| 住所 | 新潟県長岡市山田3丁目2-7 |
| 電話番号 | 070‐6433‐5645 |
| 事務所HP | https://rs-lab.jp |